品と味
ちょいちょい自分でも 料理の味わいに 品がある、品がない
という言葉で表現したりする。
調べると
「品がある」とは、優雅で洗練された雰囲気や、上品で落ち着いた印象を指す言葉です。人や物に対して使われ、内面の成熟度が外見や態度に表れている状態を表します。具体的には、言葉遣いや立ち居振る舞い、身だしなみなどが洗練されている様子を指します。
といわれてるが 優雅や洗練も 上品で落ち着いたも 美しいが条件で
その美も突き詰めると 短絡的な派手さとはきちがえてたりもして
品というのもあやしいものばかりだが
突き詰めると 日本の場合だと なんだかんだいって
禅の領域にたどり着く傾向が強い
おいしい湧き水を飲む行為で例えると
湧き水をポリタンクで運んでコーヒー、紅茶を淹れる 下品
安全な湧き水を沸かして飲む 野暮
湧き水を銅の柄杓で飲む お上品
湧き水を器を使わず 手ですくって飲む 禅の域
やったら台無しにするのが 下品と野暮の真骨頂で
そのものを活かすがお上品で
なにも邪魔することなくが
本質を見据えて対峙する禅につながる
で 世間の料理というものには この下品と野暮がいつでも出動する気まんまんで
しかもそれを 普通と思ってしまってる次元の思考が蔓延してたりする。
料理人で味覚にいつも気をめぐらせているなら
なにもせず 手ですくって飲んで旨いと言えないと
湧き水のわく場所に行く 意味すらない
手を加えることだけが 全てじゃないということをわかったうえで
作ることの意義を考えることがアートの品かな
ほんと良い水を味わうなら 水は水として味わうのが一番で
澄んだ水にドロをちょっとでも加えたらもうそれはドロ水でしかないのと
同じで、 おいしい水を活かすとしたら 飲む側の人間の帯電性をちょっと下げ
味覚の負荷を一瞬でも下げるために
銅の柄杓を使って飲みなよ と今まで言ってきてた。
せめて野暮でも下品でもならない 凡どまりな名水の使い方は
日本人なら お米を炊くかな(笑)
昔 京極に住んでる なんもない街だっていうひとに返した言葉
「京極の水で風呂入って 京極の水でトイレ流す、茶碗洗う!なんて 贅沢な町民だ!!」
ちなみに 恵庭市民は いろはすの水で風呂入って~~
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